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愛のぷよリスト鬼龍(キリュー)が紡ぐ戦いの記録・・・それがぷよます(ぷよクエとかデレステとかスクフェスのゲーム感想を書くブログです)

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Vtuberはなぜ廃れたか(中編1)



前回のまとめ


近代以前の文芸作品は

①作者と読者の区別がなく

②語るという行為を通じて
 読者は創作に参加していた。

③そのため、民話や伝説、神話には
 複数のバージョンが存在するものが
 見受けられるが

④むしろ固有の読者が
 完成済みの作品を送り出すほうが
 全体からみれば稀だった。



難しく書けばこんな感じですね。




現代でも
その手の作られ方は
怪談や都市伝説の分野で残っていて


トイレの花子さんを例にすると

①ノックをすると返事をする
②赤い吊りスカートをはいている
③女の子の幽霊

という基本的な設定を知っている読者が
アレンジして話を作っていくわけですよ。


鬼太郎の花子さんの場合、
容姿が美少女になっていて
スマホまで使えるわけですが、


時代や地域、語る人間に応じて
自在に姿形が変わるというのも
大変特徴的だなと思います。






このキキーモラも
元々はロシアの妖怪でした。


家に住み着いている
綺麗好きなモンスターという
設定をアレンジしてお話が作られる。



近代以前の文芸作品の創作は
固有の作者がいないのが普通で
それは現代でもわりとよく見られる
わけです。









じゃあ、近代以降は
どうなっていくんだという話ですが


これは簡単な話で
作者が発見・発明されていく
のですよ。


夏目漱石の『夢十夜』という
短編を例にします。





この作品は自分が見た
夢を「語る」形式を取っていて、
その中にこういう話があるのですよ。


子供を背負って道を歩いていると
いつのまにか子供が盲目になっている。

目が見えないのに
これから歩く道の様子を
まるで見えているかのように
くわしく教えてくる。

だんだんと口調が
大人の男のそれに変わってくる。

そうしてある杉の根のところまで
辿りついたところでこう話す。


100年前、
お前が俺を殺したのは
ここだったな
と。

(正確にはセリフはちょっと違う)


そこで漱石は
ああ、確かに100年前、
自分はここで盲目の男を殺したな
という自覚がおきて、

そのとたん、背中の子が石地蔵のように
重くなったと。そういう話ですね。




実はこれ、江戸時代には
すでに存在が認められる六部殺し
という怪談話をアレンジしたヤツ
なんですよ。
















つまり『夢十夜』(第3夜)という小説は

六部殺しという
名前のない作者(たち)によって
語られていた変動的なストーリーが

夏目漱石という
固有の作者が所有するストーリーへと
生まれ変わったものなのですね。














例えば私が『夢3夜』とか
適当なタイトルをつけて

この話を自分が書いたもの
だと言ったとします。


その場合、まず間違いなく
盗作したなと責められるわけです。

なぜなら、
夏目漱石という作者がいるから。


アレンジする場合でも
夏目漱石の「原作」があるよと
明記しなくちゃいけない。


こういう1つのバージョンを
上位に位置づけるというのは
花子さんのような怪談話では
到底、起こりえないことです。



原作が誕生するという一連の流れ。
これこそが大変、近代的な営み
だと言えるのですね。





物語の作者は1人しかいないし、
ストーリーも1つしか存在しえない。


夏目漱石以外の人間が
内容を改変して別の結末を書いても、
それは同人とか二次創作とみなされて
オリジナルとは考えられないんです。






ジブリ映画の『ゲド戦記』。

ネットでは当時、
めちゃくちゃ叩かれましたが、

大体の理由が
原作を無視して勝手に話を作ったから
だったと記憶しています。


でも、それって歴史的には
むしろ普通なんですよね。


今でも映画や演劇では
当たり前のように原作を脚色して
話を作っていて、

物語の舞台や人間が
変更されているのもよくあります。


ちょっと前にテレビで
アガサ・クリスティーの
『そして誰もいなくなった』が
放送されていましたが、

登場人物が全員日本人で、
舞台もイギリスではなく日本でしたね。


そういう当たり前が
当たり前でなくなってくるのが
近代という時代なんですね。






1人の作者と1つの原作。

作者の名前が貼られた物語。


原作という概念の誕生は
意外と新しいんです。


小説は作者が書いたもので、
作者の意図が文章に反映されている。

作者の訴えたいテーマや
メッセージが文章の裏にある。


こういう発想は
実は不変のものではない
ということは知っておくべきだと思います。







で、ここからが難しいんだけど

「この話は俺のもんだー!」とか
「俺の書いた話と違うじゃねーか!」
 ということを主張するには

「俺」という存在がいないと
 いけないんですよね。















ピタゴラスの定理って覚えてます?

a²=b²+c²

という中学で習うやつなんですけど

あれは正確には
ピタゴラス教団が発見した定理
なんですよ。


ピタゴラス教団という団体があって、
そのメンバーがみつけた定理は
教団の定理になるんですね。

そこには教団という「共同体」はあるけど
「個人」というものは存在しないんです。




枕草子の作者は
「清少納言(せいしょうなごん)」
って言いますよね。


これって実は女房名、
つまり一種の役職名なんです。

本名はわかりません。


宮本武蔵だって
「宮本村の武蔵」だし

菅原道真だって
「菅原一族の道真」なんですよ。



村とか一族とか、
そういう特定の団体とは別に存在する
「わたし」がいるという意識が
ここにはないんですよ。




鉄腕ダッシュっていう番組を見ると

やたらと江戸時代の職人の技術が
紹介されますけど、

いちいち誰が作った技術か
言わないじゃないですか?


あれはもちろん、
作者がわからないからなんですけど、

それは自分が開発した技術は
村なり組合なりの共有の財産だっていう
意識があったからなんですよね。

つまり、作者がいないんです。


特許を申請するなんてのは
本当に最近の出来事なんですよ。


村や組合とは別に存在する
「わたし」というものがいる
という自覚がないんです。


よく考えてみれば、
村人や職人同士の共同作業なしには
生きていくことが出来ないわけで、

村や組合なしに
存在する「じぶん」がいるという
意識が生まれるのはかなり後になるんです。


国家や社会とは別に
「わたし」というものが存在していて
その「わたし」は財産を持つ権利がある。


こういう「私有財産」という発想がないと
作者は生まれることが出来ないんですね。


(「じぶん」や「おのれ」という言葉も
  地方によっては「あなた」を
  意味することがあります。

  それだけ、「あなた」と「わたし」は
  明確に区別できないものなんですね)




これを逆向きに動かすと
愛国運動になるわけですよ。


ハーケンクロイツと一緒に
旭日旗や日の丸を振り回すというのは

「日本」というものとは別に
「わたし」が存在するという意識があると
 どだい無理なことなんですね。


「わたし」という存在を消して
「日本」と同化させることで
 はじめて可能になるわけです。




客観的に見れば
本人たちが気に入らないだけなのに

彼らの中では
「日本人の心を踏みにじった」
ということになっているのは


「俺」=「日本」という
 自己認識が前提にあるからで、


朝鮮人でてけーとか
慰安婦は嘘だーとか騒いでいるのは
「わたし」ではなく「日本人」なんです。


(だから、彼らに逆らう人間は
 日本人でないもの=反日と認定される)


そうじゃないと
「お前の個人的な意見だろプゲラ」
で片づけられちゃいますからね。

自分の意見ではなく、
国民の総意にしないといけない。

(この時、同時進行で
 「非国民」というグループも生まれる)


それを考えている「わたし」というのを
無視しなくてはいけない。


ナショナリズムっていうのは
個人を消滅させないと出来ないんです。







ここで『夢十夜』に話を戻すと

あの小説は
「夢を見ている「わたし」とは何か」
というのを問いかけている作品でもある
わけですよ。


大日本帝国の臣民でもなく、
日本人とか大和民族とか
名主の息子とかそういう大雑把な枠組みでは
捉えきれない、特別なオンリーワンである

夏目金之助という
「わたし」を見つめる話なんですね。


ちなみに、漱石はエッセーとして
『私の個人主義』というのも発表しています。






日本の近代小説の歴史というのは
「わたし」を自覚していく歴史
なのですね。


志賀直哉の『城の崎にて』も
蜂の死骸を見る「わたし」とは
なにか、という点を考える話で、

作者自身を主人公にする
私小説が大正時代に流行するのは

作者と読者を切り分けるためには
作者である「わたし」って何だ?
という問いをしなくちゃいけなかった
からだったわけです。





さて。

ここまで文学史の話をしてきましたが、

それは、基本的に、
日本の漫画やアニメ、ゲームもまた、
近代小説の亜種として生み出されてきた
からなんですね。


ジョジョの作者って誰ですか?
荒木先生ですよね。


荒木先生以外の作者が描いた
ジョジョは「偽物」か「同人」に
なるわけですよ。



そして
アニメ化するにせよ映画化するにせよ、
原作のストーリーと矛盾しない形で作られる。


1人の作者と
1つの原作に縛られる創作。



そういう特徴があるわけです。






ところが最近、流行している
メディアミックスというのは
どうもそれらとは違う性質を
抱えているのですね。

端的に言えば
ラブライブの作者って誰ですか?
ということなんですよ。


そして、メディアミックスには
歴史という概念が存在しない。


そういう点について、
次回、語りたいと思います。

~つづく~


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プロフィール

HN:
鬼龍(キリュー)
性別:
非公開
自己紹介:
愛と勇気と誇りをもって戦う孤高のぷよリスト。好きなものは勝利という名の美酒、嫌いなものはネトウヨです。


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