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ぷよます!!

愛のぷよリスト鬼龍(キリュー)が紡ぐ戦いの記録・・・それがぷよます(ぷよクエとかデレステとかスクフェスのゲーム感想を書くブログです)

Vtuberはなぜ廃れたのか(後編1)



Vtuberはなぜ廃れたか(中編2)


前回の記事で私は、
従来のゲームはシナリオやステージを
あらかじめスタッフが用意していて、

ユーザーは完成済みの作品を
攻略していたのだけれど、





近年、流行している
マリオメーカーのような作品では、

スタッフは作品ではなく、ステージを
制作するためのツールを提供していて、
創作するようにユーザーを誘導しているんだ
という話をしました。


ここでは購買者は制作者であり、
プレイヤーでもあり、

ユーザーが作るステージは
理論的には無限に殖えていきます。


これは1-1から8-4までの
全32ステージを順番に攻略していく
マリオブラザーズとは全然違うんですね。


 

でも、これってよく考えてみれば、
ステージを設計するという
クリエイターにとって最も重要な作業を
素人に丸投げしている行為でもあるわけです。


メーカーにしてみれば、
無償でステージを作ってもらった上に
Youtubeやニコニコ動画などで
その作品をプレイしてもらうことで
結果的には宣伝もタダで済むことになります。


こういうユーザーに作業の一部を
肩代わりさせるコンテンツは
大変、経済的なんです。





ですから、
カスタム・キャストのような
Vtuberを作らせるアプリを
ニコニコ動画を提供している
ドワンゴが配信するというのは
大変、理にかなっているんですね。


そもそも、ニコニコ動画自体が
視聴者を配信者にさせて、動画を
ノーギャラで作らせるもので、

実はタダ働きなんだけど、
それを自覚させないようにして
創作活動へと誘導する。


そういうことを
10年以上、やってきたわけです。


(Youtuberのように
 収入を得ている人間はいるが、
 その金は任天堂やドワンゴから
 もらったものではない)





この手のビジネスモデルでは

無限にキャラを
創造することが出来る強みがあり、

下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる方式で
一発ホームランをかませばOKよ
というところがあります。


そういう意味では音楽や
アイドル業界と似ているんですけど

決定的な違いとして
人を育てるノウハウがない
という致命的な弱点があります。




Youtuberや実況者って
まだ10年弱しか歴史がない職業で
次世代のプロを育てるプロがいない
んですね。






ライターや音楽業界は、
すでにクリエイターを養成する
学校があって、ある程度のレベルなら

そこそこ生み出せるほどの
人材育成力というのを持っています。


VtuberやYoutuberには
それがないんですね。

まぁ、もしかすると
タレント育成に携わった人物が
将来、深く関与してくるのかも
しれませんけど、基本的には

面白い動画を作れるかどうかは
本人に丸投げしているんです。

マリオメーカーのようにね。



タレントといえば降幡愛さんですよ。
黒澤ルビィ役の。

最初こそ、とてつもない下手糞で、
大人の女性が無理して子供の振りを
しているのがダイレクトに伝わってくる
痛々しい演技をしていたのですが、

半年も経たないうちに
きちんとアニメの美少女の声に
聞こえるまで上達したんですよね。

今では9人の中でも
とても上手い方だと思います。


全然、上手くなっていない人もいるから
本人の努力によるところも大きいとは
感じるけど、それでも素人を育てて
聞けるレベルまで伸ばせるところまで
声優業界が到達しているのは確かですね。





Vtuberの動画を視聴していて
常日頃感じるのが

キズナアイとか猫宮ひなたとか
月ノ美兎などの限られた人間を除いて

声優としてレベルが低い・・・
というか、全然上達しない人が
ほとんどだということなんですよね。


もちろん、
台本を読んでいるわけじゃないから
素で喋ってもいいんだけど、

声の質に特徴がない、
活舌が悪くてよく聞こえない

基本的に叫ぶか泣くか笑うかの
大声を出すリアクションしか出来ない

人がすげー多くないか?
ということなんですね。




全員の演技を
チェックしたわけじゃないから
本当は上手い人のほうが多いのかも
しれませんけどね。


でも、
『バーチャルさんがみている』
が大ゴケしたのは、内容がつまらない
以上に、演技がやばかったからだと
ウチは思えてならないんじゃ・・・

あくまで個人の感想です。





ナレーターの学校だってあるのだから

発声練習ぐらいはさせても良い
と思うのですが、


通常の事務所とは違って、
Vtuberを提供している側は・・・

まぁ、もしかしたらレッスンをさせて
あのレベルなのかもしれないけど、

もともと美兎のように面白くて
聞き取りやすい喋りができる人材を
囲うようにして提供しているだけで、

マリオメーカー的なインフラは
作れるけど、マリオブラザーズのような
コンテンツ(人材)は作れないのでは
と感じるんですよね。傍からみればね。




まぁねー・・・
新自由主義っていうのは
そういうもんだからねぇ。


一言で言えば、他人任せなんですよ。

失敗すれば自己責任で切り捨てられ、
成功すれば、自分たちが作ったイベントや
ライブの客寄せパンダとして利用される。


シビアに表現すれば、
そういう一面があるんですね。


もちろん、Vtuberにしてみれば、
それなりにサポートを受けているし、
活動の場も得られるわけですから、

あくまでWinWinの関係であって、
いちがいに全否定できないんだけど、

『ゲーム部プロジェクト』のように
 劣悪な環境で働かされたらしい
 Vtuberもいるわけで、

 企業はあくまで
 お金儲けのために利用しているだけで
 善意でやっているわけではない

 と辛口に見ていたほうが良いと思いますよ。




そういうコンテンツを
作成する能力が欠けているという
点の他にも弱点はあるわけでして。

その点について次回で触れたいと思います。


~まだつづく~




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Vtuberはなぜ廃れたか(中編2)



真ん中の娘以外、知らない・・・


まぁ、それは
私が無知だからなんだけど、

少なくとも、
2018年頃から企業が仕掛けていた
Vtuberでワンチャン狙う計画には
もう限界が来ているということは
指摘出来るのではないでしょうか。





前編

中編1

これまで書いた記事は上の2本。


簡単にまとめると文芸作品には

民話型(口承文芸)と
小説型(近代小説)の2タイプがあって

作者と読者の区別がつかなくて
話にいくつものバージョンがあるのが
民話型、その逆が小説型と理解すれば
OKです。


そして、
現代のゲームやアニメ、漫画は
基本的には小説型に属する
という所まで話を進めたと思います。

今回はその続きです。




TVゲームのどのへんが
近代小説っぽいのかという所から
話を始めようと思います。


アクションゲームの金字塔
『スーパーマリオブラザーズ』。


この作品は
あと戻りができない
というのが最大の特徴で、


①ある程度右に進むと、
もといた場所には戻れない。


②ステージを1度クリアすると
再チャレンジ出来ない。


③1-2から4-1にワープできても
その逆は出来ない などなど、


1-1から8-4まで
一方通行になっているんですね。


それって凄く意味があることで、

つまり、このゲームには

①クッパがキノコ王国を侵略してきて、
②ピーチ姫がさらわれて、
③マリオがいろいろ頑張って
④クッパを倒して平和を取り戻す

という起承転結の物語にそった形で
ゲームが設計されているわけです。


マリオの移動を通じて
時間の流れが明確に
描かれている
から
戻ることができない。


一言でいうと、マリオブラザーズは
左から右に進むゲームなんですけど、
なぜ右にしか進めないのかというと、
時間の不可逆性があるからなんですよね。





もう1つ特徴的なのが

1-1は1つしかない

ということです。


ソフトによって、地下のステージになったり、
水中ステージになることはありません。


敵キャラもクリボーは出てくるが、
ハンマーブロスやクッパは出てこない。

それもどこに出現するかも
あらかじめ開発スタッフが
プログラミングしている。


要するに
空間が固定されているわけです。

世界が1つしかないと置き換えてもOK。

マリオ3以降が顕著だけど、
ステージごとに砂漠の国、海の国と
固有の名詞が与えられていて、

例えば、ステージ3(海の国)が
空の国になったり、氷の国になったり
することはないんです。絶対に。




それはなぜかというと、
作者が1人しかいないからです。


いつ、どこで、誰が何をどうした
という5W1Hを開発スタッフが
あらかじめ用意したうえで、
ユーザーに提供しているからです。

これは大変重要なことなんですね。


ドラクエにせよFFにせよ

ストーリー、MAPや武器、
アイテム、敵キャラといった基本情報、


さらには
MAPのどこにどの敵が出現するのか、
アイテムはどこで買えるのか、
エンディングはどうなるのか。


こういうのは全て
スタッフが用意しているわけです。


つまり、正しい意味で
コンテンツ(中身)が完成していて
それを商品として差し出している。


そういう特徴があるので
もし、それと違う内容があるならば、
それは偽物か同人作品になるのですね。






草原の国からスタートして
暗黒の国でゴールを迎えるという
時間軸と空間軸が固定された
単一のストーリー。


簡単に言えば、製作者と原作が
明確に定められているのですが、
こういう小説型の作品に対して、

民話型の作品は
作者と中身が不特定多数になります。


マリオメーカーは
その典型的な例だと思います。






Youtubeで検索をかけると、
実況者数人が各自が作ったステージを
相手に遊ばせる企画が散見されますが、

その時、実況者は
制作者でもあり、プレイヤーでもある
わけです。


しかも、そのステージはノコノコやキノコ、
土管やジャンプ台といった基本的なキャラや
アイテム、ギミックこそ共有しているものの、
どういう中身になるかは定まっていない。

理論的には
プレイヤーが作るステージは
無限に殖えていくのですね。

不特定多数の作者と物語。
作者と読者の同一化。

こういうのは大変、民話的であり、
しかもメーカーが、そういう民話的な
楽しみ方をするように意図的に誘導している
ということを見逃してはいけないと思います。



(悟空の父、バーダック)

ここで、メディアミックスとは何か、
正確にはメディアミックスは
どう変わっていったのかと言う点について
語りたいと思います。


ある時期における
主流のメディアミックス作品は
大変、小説的なものでした。

例えば、アニメ版ドラゴンボールでは
悟空の父親が主役になる回がありますが、

サイヤ人は数人を除いて全滅した
という原作の設定に基づいて
話が作られているわけです。


だからバーダックが活躍する話は
過去の惑星ベジータを舞台にせざるを得ない。

原作に縛られた形で話が創作されるんです。


バーダックの性格の設定もしかりで、
戦いしか知らず、親子の情などない
サイヤ人の親をどう格好よく魅せるのか
という問題と格闘しているんですね。


原作という種が先にあって、そこから
芽が伸びて枝が分かれるようにして
ドラマやアニメや映画が作られる。

原作に矛盾した時間軸や空間軸の
設定は出来ない。そこに特徴があります。





これに対して、
近年の(といっても大分前から)
メディアミックス作品では、

キャラやMAPだけ拝借して
時間軸と空間軸をスタッフが
勝手に作るタイプがかなり普及していて
むしろこっちが当たり前になっているんですね。


つまり原作の軽視、
あるいはマリオメーカーのように
そもそも原作がないケースが
しばしば見られるのですよ。


実写版ドラクエが叩かれた理由は
原作があるのにないかのように
振る舞ったからであり、

スタッフと視聴者との間に、
そのあたりについての意識のズレが
あったからです。

そういうのを意識しないで
単に賛否両論と片づける人が
すごく多いんだけど、


深く考えていくと、
売る側と買う側との間の
ビジネスモデルのイメージの違いが
あって、それが現実の利益に響いている
ということは業界の人間は自覚すべきだと
私は思います。

(つまり、映画館に行った人は
 原作を再現したDQ5が見たかった
 という当たり前の想像が出来ていない)




そういう民話型の
メディアミックスを作るには
邪魔になるものがあります。

それは再三、この記事で指摘している
時間軸と空間軸なんですよね。


ドラゴンボールを例にすれば、
この作品に登場するキャラクターは
年を取るんです。

1巻から最終巻までの出来事をメモすると
自然と年表が出来上がっちゃうんです。


そして地球は1つしかない。
未来トランクスというのもいるけど、
それはあくまでパラレルワールドから
来たトランクスであって、

悟空が死んでいる地球と
悟空が生きている地球が
同じ空間に併存することはないんです。






数学の授業で学んだ
座標というものを思い出して欲しい
のですが、

時間と空間が固定されるということは
ストーリーも1つに固定されてしまう
んですね。



そうなると、バーダックのように
原作で描かれなかった箇所を
穴埋めするような形でしか
新しい物語はつくれなくなるんです。


つまり、創作の幅が
かなり限定されてしまう弱みがある
というわけです。






これに対してキャラや用語などの
ある種のパーツを共有するだけで、

固有の作者も原作も存在しない
民話型の作品(最近のメディアミックス)
は、基本的には何でもありなんです。


例えば、
ラブライブのゲーム最新作では
Aqour’sとμ’sが一緒に会話して
踊っているんですけど、
これは本来ならありえないんですよ。

無印のラブライブの数年後の話が
サンシャインなんですからね。

にこにーとか社会人になってるし、
かよちんあたりは結婚してるかもしれない。

なのに、同じ女子高生として
同じステージで一緒に歌っている。

時間軸のズレがある。

従来の原作ありきの派生作品なら、
これは不可能なんですね。


でも、今のメディアミックスでは、
そういうのも好きに出来る強みがあるんです。



(雑誌版ではそれなりに清楚)

言い換えれば、

原作というものが先にあって、
それをアニメにしたり漫画にしたりして
再現するというタイプから、

大雑把な設定だけがあって、

それを漫画家やアニメスタッフ、
ライターが各々、肉付けをして
複数のバージョンがあるキャラクターや
ストーリーを並行的に作っていくタイプへと

変化したものが
近年のメディアミックスなんだ
ということになります。


ですから、雑誌版サンシャインと
スクフェス版、アニメ版サンシャインは
それぞれ独立しているし、
キャラの性格やストーリーも
よく見ると結構ばらつきがあるんですね。




基本、好き勝手に話も作れるし
キャラも作れる強みがある
メディアミックスですが、

それは同時に弱点でもあるわけでして。


次回はその点から話を始めて、
なぜVtuberへの熱狂が一気に冷めたのか
という点について考えたいと思います。

~つづく~

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Vtuberはなぜ廃れたか(中編1)



前回のまとめ


近代以前の文芸作品は

①作者と読者の区別がなく

②語るという行為を通じて
 読者は創作に参加していた。

③そのため、民話や伝説、神話には
 複数のバージョンが存在するものが
 見受けられるが

④むしろ固有の読者が
 完成済みの作品を送り出すほうが
 全体からみれば稀だった。



難しく書けばこんな感じですね。




現代でも
その手の作られ方は
怪談や都市伝説の分野で残っていて


トイレの花子さんを例にすると

①ノックをすると返事をする
②赤い吊りスカートをはいている
③女の子の幽霊

という基本的な設定を知っている読者が
アレンジして話を作っていくわけですよ。


鬼太郎の花子さんの場合、
容姿が美少女になっていて
スマホまで使えるわけですが、


時代や地域、語る人間に応じて
自在に姿形が変わるというのも
大変特徴的だなと思います。






このキキーモラも
元々はロシアの妖怪でした。


家に住み着いている
綺麗好きなモンスターという
設定をアレンジしてお話が作られる。



近代以前の文芸作品の創作は
固有の作者がいないのが普通で
それは現代でもわりとよく見られる
わけです。









じゃあ、近代以降は
どうなっていくんだという話ですが


これは簡単な話で
作者が発見・発明されていく
のですよ。


夏目漱石の『夢十夜』という
短編を例にします。





この作品は自分が見た
夢を「語る」形式を取っていて、
その中にこういう話があるのですよ。


子供を背負って道を歩いていると
いつのまにか子供が盲目になっている。

目が見えないのに
これから歩く道の様子を
まるで見えているかのように
くわしく教えてくる。

だんだんと口調が
大人の男のそれに変わってくる。

そうしてある杉の根のところまで
辿りついたところでこう話す。


100年前、
お前が俺を殺したのは
ここだったな
と。

(正確にはセリフはちょっと違う)


そこで漱石は
ああ、確かに100年前、
自分はここで盲目の男を殺したな
という自覚がおきて、

そのとたん、背中の子が石地蔵のように
重くなったと。そういう話ですね。




実はこれ、江戸時代には
すでに存在が認められる六部殺し
という怪談話をアレンジしたヤツ
なんですよ。
















つまり『夢十夜』(第3夜)という小説は

六部殺しという
名前のない作者(たち)によって
語られていた変動的なストーリーが

夏目漱石という
固有の作者が所有するストーリーへと
生まれ変わったものなのですね。














例えば私が『夢3夜』とか
適当なタイトルをつけて

この話を自分が書いたもの
だと言ったとします。


その場合、まず間違いなく
盗作したなと責められるわけです。

なぜなら、
夏目漱石という作者がいるから。


アレンジする場合でも
夏目漱石の「原作」があるよと
明記しなくちゃいけない。


こういう1つのバージョンを
上位に位置づけるというのは
花子さんのような怪談話では
到底、起こりえないことです。



原作が誕生するという一連の流れ。
これこそが大変、近代的な営み
だと言えるのですね。





物語の作者は1人しかいないし、
ストーリーも1つしか存在しえない。


夏目漱石以外の人間が
内容を改変して別の結末を書いても、
それは同人とか二次創作とみなされて
オリジナルとは考えられないんです。






ジブリ映画の『ゲド戦記』。

ネットでは当時、
めちゃくちゃ叩かれましたが、

大体の理由が
原作を無視して勝手に話を作ったから
だったと記憶しています。


でも、それって歴史的には
むしろ普通なんですよね。


今でも映画や演劇では
当たり前のように原作を脚色して
話を作っていて、

物語の舞台や人間が
変更されているのもよくあります。


ちょっと前にテレビで
アガサ・クリスティーの
『そして誰もいなくなった』が
放送されていましたが、

登場人物が全員日本人で、
舞台もイギリスではなく日本でしたね。


そういう当たり前が
当たり前でなくなってくるのが
近代という時代なんですね。






1人の作者と1つの原作。

作者の名前が貼られた物語。


原作という概念の誕生は
意外と新しいんです。


小説は作者が書いたもので、
作者の意図が文章に反映されている。

作者の訴えたいテーマや
メッセージが文章の裏にある。


こういう発想は
実は不変のものではない
ということは知っておくべきだと思います。







で、ここからが難しいんだけど

「この話は俺のもんだー!」とか
「俺の書いた話と違うじゃねーか!」
 ということを主張するには

「俺」という存在がいないと
 いけないんですよね。















ピタゴラスの定理って覚えてます?

a²=b²+c²

という中学で習うやつなんですけど

あれは正確には
ピタゴラス教団が発見した定理
なんですよ。


ピタゴラス教団という団体があって、
そのメンバーがみつけた定理は
教団の定理になるんですね。

そこには教団という「共同体」はあるけど
「個人」というものは存在しないんです。




枕草子の作者は
「清少納言(せいしょうなごん)」
って言いますよね。


これって実は女房名、
つまり一種の役職名なんです。

本名はわかりません。


宮本武蔵だって
「宮本村の武蔵」だし

菅原道真だって
「菅原一族の道真」なんですよ。



村とか一族とか、
そういう特定の団体とは別に存在する
「わたし」がいるという意識が
ここにはないんですよ。




鉄腕ダッシュっていう番組を見ると

やたらと江戸時代の職人の技術が
紹介されますけど、

いちいち誰が作った技術か
言わないじゃないですか?


あれはもちろん、
作者がわからないからなんですけど、

それは自分が開発した技術は
村なり組合なりの共有の財産だっていう
意識があったからなんですよね。

つまり、作者がいないんです。


特許を申請するなんてのは
本当に最近の出来事なんですよ。


村や組合とは別に存在する
「わたし」というものがいる
という自覚がないんです。


よく考えてみれば、
村人や職人同士の共同作業なしには
生きていくことが出来ないわけで、

村や組合なしに
存在する「じぶん」がいるという
意識が生まれるのはかなり後になるんです。


国家や社会とは別に
「わたし」というものが存在していて
その「わたし」は財産を持つ権利がある。


こういう「私有財産」という発想がないと
作者は生まれることが出来ないんですね。


(「じぶん」や「おのれ」という言葉も
  地方によっては「あなた」を
  意味することがあります。

  それだけ、「あなた」と「わたし」は
  明確に区別できないものなんですね)




これを逆向きに動かすと
愛国運動になるわけですよ。


ハーケンクロイツと一緒に
旭日旗や日の丸を振り回すというのは

「日本」というものとは別に
「わたし」が存在するという意識があると
 どだい無理なことなんですね。


「わたし」という存在を消して
「日本」と同化させることで
 はじめて可能になるわけです。




客観的に見れば
本人たちが気に入らないだけなのに

彼らの中では
「日本人の心を踏みにじった」
ということになっているのは


「俺」=「日本」という
 自己認識が前提にあるからで、


朝鮮人でてけーとか
慰安婦は嘘だーとか騒いでいるのは
「わたし」ではなく「日本人」なんです。


(だから、彼らに逆らう人間は
 日本人でないもの=反日と認定される)


そうじゃないと
「お前の個人的な意見だろプゲラ」
で片づけられちゃいますからね。

自分の意見ではなく、
国民の総意にしないといけない。

(この時、同時進行で
 「非国民」というグループも生まれる)


それを考えている「わたし」というのを
無視しなくてはいけない。


ナショナリズムっていうのは
個人を消滅させないと出来ないんです。







ここで『夢十夜』に話を戻すと

あの小説は
「夢を見ている「わたし」とは何か」
というのを問いかけている作品でもある
わけですよ。


大日本帝国の臣民でもなく、
日本人とか大和民族とか
名主の息子とかそういう大雑把な枠組みでは
捉えきれない、特別なオンリーワンである

夏目金之助という
「わたし」を見つめる話なんですね。


ちなみに、漱石はエッセーとして
『私の個人主義』というのも発表しています。






日本の近代小説の歴史というのは
「わたし」を自覚していく歴史
なのですね。


志賀直哉の『城の崎にて』も
蜂の死骸を見る「わたし」とは
なにか、という点を考える話で、

作者自身を主人公にする
私小説が大正時代に流行するのは

作者と読者を切り分けるためには
作者である「わたし」って何だ?
という問いをしなくちゃいけなかった
からだったわけです。





さて。

ここまで文学史の話をしてきましたが、

それは、基本的に、
日本の漫画やアニメ、ゲームもまた、
近代小説の亜種として生み出されてきた
からなんですね。


ジョジョの作者って誰ですか?
荒木先生ですよね。


荒木先生以外の作者が描いた
ジョジョは「偽物」か「同人」に
なるわけですよ。



そして
アニメ化するにせよ映画化するにせよ、
原作のストーリーと矛盾しない形で作られる。


1人の作者と
1つの原作に縛られる創作。



そういう特徴があるわけです。






ところが最近、流行している
メディアミックスというのは
どうもそれらとは違う性質を
抱えているのですね。

端的に言えば
ラブライブの作者って誰ですか?
ということなんですよ。


そして、メディアミックスには
歴史という概念が存在しない。


そういう点について、
次回、語りたいと思います。

~つづく~


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Vtuberはなぜ廃れたか(前編)



登録者数267万人、
半年前には806万再生も
余裕のよっちゃんで達成していた
バーチャル・ユーチューバー
キズナアイ


NHKにもコメンテーターとして
出演していた彼女ですが





いろいろあって現在、10万再生も
いかない状況になっています。







Vtuber四天王の1人である
ミライアカリはさらに不味い。


再生回数5万ちょっとなんですよね。








猫宮ひなたも
1年前は30万~60万再生
余裕っすよって感じだったのに

今は10万いけるか?
となっていますし








わりと健闘している
月ノ美兎だって1年前は
30万再生が普通だったわけです。







大体、動画1本あたりの収入は
再生回数×0.1~0.02
と言われています。


つまり、1万回再生なら
甘く見積もっても
千円しか儲からないのです。


最低でも10万、
出来れば20万はないと厳しいし

Vtuberの場合、大半は
企業が立ち上げたものなので
もうちょっと稼いでくれないと
会社としては困るのではないでしょうか?





もちろん、グッズやイベントなど
動画以外の利益で穴埋めすることは
出来るので一概に運営が苦しいとは
断言できませんが、


それでも世間一般の関心は
以前よりも下がったなと感じます。


今回の連載記事は
Vtuberの凋落の原因を探る
ことを目的として作りました。




一言で言えば

この現象は
メディアミックスの弱点が
露呈された形で現れた

といったことになるでしょうか。


声優が降板したとか
アニメが爆死したとか
個別の原因はあるでしょうが

大きな要因としては
メディアミックス型の作品では
もうタピオカミルクティー的な
稼ぎ方しかできない

つまり、ごく短期間に
消費者から搾れるだけ搾り取る
ような稼ぎ方しか出来ないように
なりつつあるのでは・・・?

と思うんですね。





では、メディアミックスとは何か?


その問いに答えるために
近代小説とは何か?
という地点から考察を始めたい
と思います。


近代小説。


それは簡単に言えば

固有の作者と
物語、歴史を持つ作品

のことを指すんですね。



















明治時代以前の文芸作品は
どうだったのかというのを
考えてみるとわかりやすいと
思います。



うり子姫とあまのじゃく

という民話を例にすると、


このお話は美しい娘が
お嫁に行くことになるが
天邪鬼という鬼に妨害される

というあらすじこそ共通していますが
鬼に殺されるバージョンと
殺されずに結婚するバージョンの
複数の結末があるんですね。

そして、誰が書いた話なのかも
わからない。というか、
1人で書いたのかすらわからない。

正確には複数の人間が
伝言ゲームのように話を伝えるうちに
徐々に形が整えられていった。

それもいくつかのバージョンに
分かれていった。そういう作品です。




ネットどころか
本すらろくにない時代、
物語を伝える媒体は人間の口でした。

今風に言えばクチコミです。


平家物語ってありますよね。


あれは琵琶を持った坊さんが
楽器を演奏しながら教え説く形で
全国に広まりましたが


実は、話す人によって
内容が違っているんですよ。





これは近代的な作品では
ありえないことです。

話の内容を勝手に変えるのは
作者以外、ゆるされない。


ドラえもんという全40数巻の
固有の物語が先にあって
出版社はそれを売る。

つまり、
話を作る側と話を売る側、
そして読む側が
はっきり分けられているのです。





これに対して、近代以前では

1人の人間が完成済みの物語を
世に送り出すというのは
むしろマイナーであって


未完成の作品が
不特定多数の人間を介して
複数のバージョンへと
分裂して紡がれていく方が
メジャーだった


と言えます。





現代でも怪談では
そういう作られ方が
ポピュラーですね。

例えば
トイレの花子さん


①誰もいないトイレのドアを
 三回ノックすると返事をしてくる

②おかっぱに
 赤い吊りスカートを着た
 小さな女の子の霊

という部分だけが共通で

①どういう性格をしているのか
②人間を襲うのか襲わないのか

といった細かい設定は
その時代や地方の影響を受けながら
話し手がアレンジするわけです。


近年では
萌えキャラになったり
スマホをいじくったりと
かなり現代的な霊になっていますね。






八尺さま

というネット上で広がった怪談。


大女の妖怪に命を狙われて
色々困る話ですが








これは「やまおんな
という怪談がベースになっています。



山に薪を拾いに行ったら
美女がいたのだけれど、
松の木で胴体が見えない。

なんとなく薄気味悪いので
逃げるようにして帰ったのだが、

よく考えてみれば
松よりも高いということは
3M以上はある大女ではないか

やはり妖怪の類だったに違いない

という話です。

(この怪談にも
 いくつかのバージョンがあります)


現代の怪談の中にも
過去の怪談を現代風に脚色して
新たに書き直しているケースがある
わけですね。


この場合、
読者が作者になっていて
つまり過去の話を読んだり
聞いたりした人が、新たな作者に
なって物語を創作しているのですが、

この
読者と作者の境界が無い
という点こそ、明治以前の文芸作品の
特徴だったと言えます。





まとめると、一部の作品を除いては
近代以前の文学では

ある話を聞いたり
読んだりした誰かが
アレンジするようにして
新たな物語を作っていく。

その結果、
いくつものバージョンが
併存して語られていく。


というスタイルを取っていました。

その際、
複数の読者が
「語る」という行為を通じて
ストーリーの
更新作業に参加していく
ので、結果として

作者と読者の境界線が
ぼんやりしているんですね。



こういう創作方法が主流だったのに
対して18世紀(諸説あり)から
だんだんと、そして19世紀から
はっきりと近代型の小説が台頭する
ようになりました。


次回では某有名漫画を例に
その点についてお話をしたいと
思います。

~続く~

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娯楽における性描写(後編)



突然ですが、あなたは
この画像をいやらしいと思いますか?



前回、私はキャラクターの身体性という
ものについて説明をしました。

それは簡単に言えば、
上のドラミちゃんを見てエッチだと
思うかどうかということだと言えます。


冷静に考えれば、
ドラえもんもドラミちゃんも
全裸にリボンに首輪と
かなり扇情的な格好をしている
のですが、不思議とエロスはありません。



身体性が欠けている
というのはそういうことです。




(暴力は時に笑いのネタにされる)


乳房や乳首、へそや性器といった
リアルな生物的表現がない。



そういう描写は実は暴力を
どう描くかということと密接に
つながっていて、身体性がないことは
非現実的な暴力を表現することでもあった。


それゆえに
ギャグ漫画の死なない・老いない・
傷つかない非生物的なキャラクターは
しばしば戦意高揚の道具に利用されていて

その点において、赤裸々な性的描写は
ある時期では、権力者が仕組んだ
暴力のごまかしに対する反抗的な
暴露行為でもあった。


以上のことを述べたつもりです。





(胸元を大きく魅せていくスタイル)


では、そういう真面目な理由で
描かれた性的描写はどう変化したか?

本記事では、
この点について言及したいと思います。


一言で言えば、80年代から
セクシーはクールと結び付けて
受け取られるようになっていった

と指摘できます。


例えば、ジョジョのキャラデザを
見ればわかるけれど、やたらと
露出が激しい服を着ていることに
気づきませんか?


スタンドも腹筋を露出する一方で
乳首や股間の箇所を服で隠すことで
あたかも人間であるかのように
表現しています。




作家の平野啓一郎さんによれば、

カッコいいという言葉が普及したのは
1960年代かららしいです。

つまり、
「チルってる」や「よいちょまる」
と同じ現代の流行語だったのですね。





このカッコ良さって何かということを
私なりに考えると、

まず人間であることが
求められるのではないか

というのが必要条件にあると思います。


ここで言う「人間」とは
いわゆる「理想的な人間」ですね。

例え自分が死ぬとわかっていても
仲間の危機を救うためにスタンドを使う。

そういう心の気高さも
対象に入っていると思います。

ただ、それを表現するには
しばしば、人間っぽい仕草や表情が
用いられるのですね。


つまり、ビジュアルというのが
かなり密接に関係しているのです。


カッコ良い奴はカッコ良い表情をするし
カッコ悪い奴はカッコ悪い表情をする。

身体的描写と精神的描写が
重なっているところがあるんです。


犬のイギーも最終的には
覆面レスラーのような面になって
人間的な表情をするようになりました。



(ハート型の穴があいた衣装)


荒木先生いわく、
男性に女性的な要素をつけると、
色っぽくなるとのことですが、


まさに性的に描くことが
ある種のカッコ良さにつながるのですね。


ここで先ほどのドラえもんを
思い出してください。






このドラえもんをカッコ良いと
思う人はレアだと思います。


それはドラえもんに身体性がないから
と説明できるのではないでしょうか。


もっと言ってしまえば、
うしろのふすまを見て
あなたはクールだと思いますか?



私たちが、あるキャラを
カッコ良いとか可愛いと

思うのは、それが生き物だから
なんです。

(正確には生物的だからだと言える)





生物的に描く際に
もっとも好まれるのが筋肉ですね。


ドラえもんに無くて
悟空にあるもの、それはマッスルです。


大抵の漫画では筋肉を露出させて
戦士を戦わせています。


これはジョジョも例外ではない
と思います。


ポルナレフとかジョセフとか
基本的にはムキムキのキャラが
多く登場しますからね。





男性キャラが
筋肉や汗、胸元、へその露出などで
生物的に表現される一方で、


女性もまた肌を露出させたり、
胸や腰、つまり輪郭を強調することで
キュートに表現されてきたと言えます。


ダイヤさんが
やたらと脱ぎたがるのは
そうしたほうがスタイルの良さが
際立つからであり、また






セクシーであることが
かわいいと結びついているから
なんですね。


私はこの世で一番ダサい服は
ジャージだと信じていますが、

あれは長そでで
腕も足も見えませんよね。


10代女子がセクハラにキレる一方で
制服のスカートを切りたがるのも、
そういう「かわいい」と
関係があるからだと思います。


 



この衣装も、おへそや太ももが
見えるようにデザインされていますが

仮にこれが布で全部覆われていたら
あんまり可愛くないんじゃないか
と思います。


この法子を見てキモイと思う女性は
法子自身ではなく

この法子を見て
鼻息を荒くしているキモオタに
対して、本能的に無理だと思っている
のではないでしょうか。




少なくとも昔からいる保守派の
女性はそういう考えをしていますね。


結婚をしない、正確には
子供を産まない恋愛は認めない
人たちなので。

(それゆえに同性愛者も
 欠陥のある人物とみなされる)




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(確か小学生だったはず・・・)


ここまで私は
カッコいいやかわいいと
セクシーの関係を述べてきました。


簡単に言えば
セクシー≒クールOrキュート
として機能している側面があるのですね。


性的表現から政治的な意味が消えて
単なる表現になったこと、

それ自体は別に悪くないじゃないか
と思う人もいるはずです。


ところが、そう簡単にはいかない
面があって、それはつまり、

政治的な意味が消えているようで
実は保守的な隠喩に反転している
のが見受けられるんですね。


簡単に言えば、
本当にただのエロ描写になって、
しかもそれは男が女を消費する形
になっている。

その問題はサブカル評論家である
大塚英志さんが
一貫して主張していることです。




ラッキースケベってありますよね。

転んだり何なりして
女の子の下着が見えたり
胸をもんだりするアレです。


これはスカートめくりとは
対極的な描写なんですよ。


スカートめくりや覗きは
自分の意志で行うものです。

当然、男の方が悪いわけです。
わいせつ行為ですから。


けれど、
エッチなハプニングには
加害者と被害者が存在しません。


到底起こりえない
非現実的な性的シーンを描くことで
現実の加害と被害の関係を隠す効果が
あって、

加えて気の強いヒロインに
主人公を殴らせたりすることで
男の無謬性を更に強調するのですね。



(This is the cool Japan we japanese say)


大塚さんは
クール・ジャパンとか
萌えと自称されるものが

その実、ポルノグラフィとして
海外で受け入れられていることを
忘れてはいけないと語っています。


海外のゲームを見ると、
しばしば日本的な表現が
採用されているのだけれども、

それは「横じま模様のパンツ」だったり
「旧型スクール水着」だったりするのですよ。


幼い少女にエッチな下着を履かせて
挑発的なポーズをとらせる。

これはリアルでやれば
文句なしの児童ポルノです。


でも、所詮は絵ですから
処罰の対象にはなりにくい。


加えて、この手の女キャラは
無垢なのか無知なのか知らないけれど
こういう格好をすることに抵抗しませんし、
着させる相手に怒りもしませんしね。



そういう意味での需要があって、
日本の一部コミックがHENTAIと
呼ばれ、愛好を受けていること。

その意味は重いです。



つまり、
クールジャパンとか言ってるけれど

何か日本的な文化に惹かれたのではなく、
児童ポルノの規制が厳しい海外において
日本のHENTAI漫画が重宝されただけに
過ぎないんだという意見ですね。


極論かなーとは思うけれど、
その一方で鼻で笑えないものもあります。



(エロいところしか見習ってくれない)

アズールレーンを
中国による艦隊これくしょんの
パクリだって言う人がいるのですが

仮にそうだとしても、
こういうパクられ方しかない
ということは自覚すべきだと思います。



ここにおいて女性キャラクターは
ポルノ産業の商品として存在する以上、
購買者である男性に対しては
従順で都合が良い性格をしている。



(こんなヒロイン嫌だ・・・)

ヤンデレとかツンデレとかも
いるぞと思うかもしれないが、

それは
美少女であることが前提
ですからね。

おばさんやばばあではない。


現実のモテる男は
そういう人たちにもキャーキャー
言われるのだけれど、そういう
リアリティが欠けているんですね。






この記事の冒頭で
外面的な可愛らしさが
内面的な正しさとイコールで
結び付けられていることについて
言及したつもりですが、


そういう描写が日常化すると
可愛くない人や恐い人の意見が
間違いだと自動的に認識されがち
になるのですよ。

このHow Dare Youのお嬢さんが
やたらと海外でも日本でも
叩かれているのは

発言の内容に怒ったからというよりは
その話し方が如何にも活動家くさくて
生理的に受け入れがたいから
ではないかと私は考えます。

ていうか、活動家なんだから
活動家っぽいスピーチをしても
別にいいじゃんという話ですが

こういう大人に対して怒る子供
というのは、やはりどの国でも
理解されがたいです。
 
 



まとめると性的表現から
カッコ付きの「政治的」意図が
消えて単なるアクセサリーとして
機能していく一方で、

そういう表現は大変重要な問題を
可愛いか可愛くないか、

セクシーかセクシーじゃないか
で考える姿勢が当たり前のように
みなされていく装置として
働く危険性もあるってことですね。


奇しくも過剰に性的な描写をすることで
逆転的にのらくろのような非現実的な
身体描写へと転化しているわけです。




ヲタクを毛嫌いしている連中が
漫画やアニメをクールジャパンと称して
売り出したがっている矛盾というのは
そういう文脈から推し量れるのですね。


利用できるかどうかですね。
一言で言えば。


単にエロイかどうか、
クールかどうかだけで判断しちゃう
アニオタがネトウヨになるのも
その意味において矛盾してないんですよ。


ラピュタは彼ら基準では
大変反日的な映画であるはずだけど、
面白いから叩かれない。

そういういい加減さが
集合してうねりになるとどうなるか。


よくよく考えなくちゃいけない
んじゃないかなと私は思いますね。

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プロフィール

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鬼龍(キリュー)
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非公開
自己紹介:
愛と勇気と誇りをもって戦う孤高のぷよリスト。好きなものは勝利という名の美酒、嫌いなものはネトウヨです。


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