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愛のぷよリスト鬼龍(キリュー)が紡ぐ戦いの記録・・・それがぷよます(ぷよクエとかデレステとかスクフェスのゲーム感想を書くブログです)

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娯楽における性描写(後編)



突然ですが、あなたは
この画像をいやらしいと思いますか?



前回、私はキャラクターの身体性という
ものについて説明をしました。

それは簡単に言えば、
上のドラミちゃんを見てエッチだと
思うかどうかということだと言えます。


冷静に考えれば、
ドラえもんもドラミちゃんも
全裸にリボンに首輪と
かなり扇情的な格好をしている
のですが、不思議とエロスはありません。



身体性が欠けている
というのはそういうことです。




(暴力は時に笑いのネタにされる)


乳房や乳首、へそや性器といった
リアルな生物的表現がない。



そういう描写は実は暴力を
どう描くかということと密接に
つながっていて、身体性がないことは
非現実的な暴力を表現することでもあった。


それゆえに
ギャグ漫画の死なない・老いない・
傷つかない非生物的なキャラクターは
しばしば戦意高揚の道具に利用されていて

その点において、赤裸々な性的描写は
ある時期では、権力者が仕組んだ
暴力のごまかしに対する反抗的な
暴露行為でもあった。


以上のことを述べたつもりです。





(胸元を大きく魅せていくスタイル)


では、そういう真面目な理由で
描かれた性的描写はどう変化したか?

本記事では、
この点について言及したいと思います。


一言で言えば、80年代から
セクシーはクールと結び付けて
受け取られるようになっていった

と指摘できます。


例えば、ジョジョのキャラデザを
見ればわかるけれど、やたらと
露出が激しい服を着ていることに
気づきませんか?


スタンドも腹筋を露出する一方で
乳首や股間の箇所を服で隠すことで
あたかも人間であるかのように
表現しています。




作家の平野啓一郎さんによれば、

カッコいいという言葉が普及したのは
1960年代かららしいです。

つまり、
「チルってる」や「よいちょまる」
と同じ現代の流行語だったのですね。





このカッコ良さって何かということを
私なりに考えると、

まず人間であることが
求められるのではないか

というのが必要条件にあると思います。


ここで言う「人間」とは
いわゆる「理想的な人間」ですね。

例え自分が死ぬとわかっていても
仲間の危機を救うためにスタンドを使う。

そういう心の気高さも
対象に入っていると思います。

ただ、それを表現するには
しばしば、人間っぽい仕草や表情が
用いられるのですね。


つまり、ビジュアルというのが
かなり密接に関係しているのです。


カッコ良い奴はカッコ良い表情をするし
カッコ悪い奴はカッコ悪い表情をする。

身体的描写と精神的描写が
重なっているところがあるんです。


犬のイギーも最終的には
覆面レスラーのような面になって
人間的な表情をするようになりました。



(ハート型の穴があいた衣装)


荒木先生いわく、
男性に女性的な要素をつけると、
色っぽくなるとのことですが、


まさに性的に描くことが
ある種のカッコ良さにつながるのですね。


ここで先ほどのドラえもんを
思い出してください。






このドラえもんをカッコ良いと
思う人はレアだと思います。


それはドラえもんに身体性がないから
と説明できるのではないでしょうか。


もっと言ってしまえば、
うしろのふすまを見て
あなたはクールだと思いますか?



私たちが、あるキャラを
カッコ良いとか可愛いと

思うのは、それが生き物だから
なんです。

(正確には生物的だからだと言える)





生物的に描く際に
もっとも好まれるのが筋肉ですね。


ドラえもんに無くて
悟空にあるもの、それはマッスルです。


大抵の漫画では筋肉を露出させて
戦士を戦わせています。


これはジョジョも例外ではない
と思います。


ポルナレフとかジョセフとか
基本的にはムキムキのキャラが
多く登場しますからね。





男性キャラが
筋肉や汗、胸元、へその露出などで
生物的に表現される一方で、


女性もまた肌を露出させたり、
胸や腰、つまり輪郭を強調することで
キュートに表現されてきたと言えます。


ダイヤさんが
やたらと脱ぎたがるのは
そうしたほうがスタイルの良さが
際立つからであり、また






セクシーであることが
かわいいと結びついているから
なんですね。


私はこの世で一番ダサい服は
ジャージだと信じていますが、

あれは長そでで
腕も足も見えませんよね。


10代女子がセクハラにキレる一方で
制服のスカートを切りたがるのも、
そういう「かわいい」と
関係があるからだと思います。


 



この衣装も、おへそや太ももが
見えるようにデザインされていますが

仮にこれが布で全部覆われていたら
あんまり可愛くないんじゃないか
と思います。


この法子を見てキモイと思う女性は
法子自身ではなく

この法子を見て
鼻息を荒くしているキモオタに
対して、本能的に無理だと思っている
のではないでしょうか。




少なくとも昔からいる保守派の
女性はそういう考えをしていますね。


結婚をしない、正確には
子供を産まない恋愛は認めない
人たちなので。

(それゆえに同性愛者も
 欠陥のある人物とみなされる)




4545784042328_17oct20_1.jpg
(確か小学生だったはず・・・)


ここまで私は
カッコいいやかわいいと
セクシーの関係を述べてきました。


簡単に言えば
セクシー≒クールOrキュート
として機能している側面があるのですね。


性的表現から政治的な意味が消えて
単なる表現になったこと、

それ自体は別に悪くないじゃないか
と思う人もいるはずです。


ところが、そう簡単にはいかない
面があって、それはつまり、

政治的な意味が消えているようで
実は保守的な隠喩に反転している
のが見受けられるんですね。


簡単に言えば、
本当にただのエロ描写になって、
しかもそれは男が女を消費する形
になっている。

その問題はサブカル評論家である
大塚英志さんが
一貫して主張していることです。




ラッキースケベってありますよね。

転んだり何なりして
女の子の下着が見えたり
胸をもんだりするアレです。


これはスカートめくりとは
対極的な描写なんですよ。


スカートめくりや覗きは
自分の意志で行うものです。

当然、男の方が悪いわけです。
わいせつ行為ですから。


けれど、
エッチなハプニングには
加害者と被害者が存在しません。


到底起こりえない
非現実的な性的シーンを描くことで
現実の加害と被害の関係を隠す効果が
あって、

加えて気の強いヒロインに
主人公を殴らせたりすることで
男の無謬性を更に強調するのですね。



(This is the cool Japan we japanese say)


大塚さんは
クール・ジャパンとか
萌えと自称されるものが

その実、ポルノグラフィとして
海外で受け入れられていることを
忘れてはいけないと語っています。


海外のゲームを見ると、
しばしば日本的な表現が
採用されているのだけれども、

それは「横じま模様のパンツ」だったり
「旧型スクール水着」だったりするのですよ。


幼い少女にエッチな下着を履かせて
挑発的なポーズをとらせる。

これはリアルでやれば
文句なしの児童ポルノです。


でも、所詮は絵ですから
処罰の対象にはなりにくい。


加えて、この手の女キャラは
無垢なのか無知なのか知らないけれど
こういう格好をすることに抵抗しませんし、
着させる相手に怒りもしませんしね。



そういう意味での需要があって、
日本の一部コミックがHENTAIと
呼ばれ、愛好を受けていること。

その意味は重いです。



つまり、
クールジャパンとか言ってるけれど

何か日本的な文化に惹かれたのではなく、
児童ポルノの規制が厳しい海外において
日本のHENTAI漫画が重宝されただけに
過ぎないんだという意見ですね。


極論かなーとは思うけれど、
その一方で鼻で笑えないものもあります。



(エロいところしか見習ってくれない)

アズールレーンを
中国による艦隊これくしょんの
パクリだって言う人がいるのですが

仮にそうだとしても、
こういうパクられ方しかない
ということは自覚すべきだと思います。



ここにおいて女性キャラクターは
ポルノ産業の商品として存在する以上、
購買者である男性に対しては
従順で都合が良い性格をしている。



(こんなヒロイン嫌だ・・・)

ヤンデレとかツンデレとかも
いるぞと思うかもしれないが、

それは
美少女であることが前提
ですからね。

おばさんやばばあではない。


現実のモテる男は
そういう人たちにもキャーキャー
言われるのだけれど、そういう
リアリティが欠けているんですね。






この記事の冒頭で
外面的な可愛らしさが
内面的な正しさとイコールで
結び付けられていることについて
言及したつもりですが、


そういう描写が日常化すると
可愛くない人や恐い人の意見が
間違いだと自動的に認識されがち
になるのですよ。

このHow Dare Youのお嬢さんが
やたらと海外でも日本でも
叩かれているのは

発言の内容に怒ったからというよりは
その話し方が如何にも活動家くさくて
生理的に受け入れがたいから
ではないかと私は考えます。

ていうか、活動家なんだから
活動家っぽいスピーチをしても
別にいいじゃんという話ですが

こういう大人に対して怒る子供
というのは、やはりどの国でも
理解されがたいです。
 
 



まとめると性的表現から
カッコ付きの「政治的」意図が
消えて単なるアクセサリーとして
機能していく一方で、

そういう表現は大変重要な問題を
可愛いか可愛くないか、

セクシーかセクシーじゃないか
で考える姿勢が当たり前のように
みなされていく装置として
働く危険性もあるってことですね。


奇しくも過剰に性的な描写をすることで
逆転的にのらくろのような非現実的な
身体描写へと転化しているわけです。




ヲタクを毛嫌いしている連中が
漫画やアニメをクールジャパンと称して
売り出したがっている矛盾というのは
そういう文脈から推し量れるのですね。


利用できるかどうかですね。
一言で言えば。


単にエロイかどうか、
クールかどうかだけで判断しちゃう
アニオタがネトウヨになるのも
その意味において矛盾してないんですよ。


ラピュタは彼ら基準では
大変反日的な映画であるはずだけど、
面白いから叩かれない。

そういういい加減さが
集合してうねりになるとどうなるか。


よくよく考えなくちゃいけない
んじゃないかなと私は思いますね。

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娯楽における性描写(前編)


太股~黄色編~


よそのサイトで
面白い連載がされているのに
触発されてこの記事を書きました。


この連載記事ですが、
フォントを変えたり色を付けたり
画像をつけたり目次を付ける作業って
かなり面倒なので、結構長い時間を
かけて丁寧に書いたのではないでしょうか。

素直に感心しました。


内容自体は右翼がキレ出しそうな
ことが書かれているんですけどね。


 











(彼らにとってオタクは犯罪者予備軍)

ビートたけしのTVタックルについて

メディアにねつ造される危険なアニメ


アニオタのネトウヨが多いので
意外に思われるかもしれませんが、

歴史的にはアニメや漫画、ゲームは
保守派の人に攻撃されてきたのですよ。


教育上、よろしくないってね。


逆に左翼的と呼ばれている人物は
積極的にこれらのジャンルで活躍
していたりします。


バルス!
宮崎駿監督が久米島へ


ジブリの宮崎駿監督などは
その典型的な例ですね。

他にも安彦良和さん、富野さんといった
初代ガンダムのスタッフとか。


ラピュタ、ナウシカ、紅の豚、
ぽんぽこ、もののけ姫・・・
よく見れば大変政治的な映画なんです。

でも、大抵の人は
よく見ていないので

慰安婦像をけしからんと語る一方で
ラピュタを見ながらバルス!と
tweetしちゃうんですよね。




そういう歴史的背景を知ると、

「水着の押忍にゃんかわえー(^▽^)/」
とかほざいているおっさんが

トリエンナーレで
「日本人の心を踏みにじるなぁ!」
とtweetしているのって

一見、すごく矛盾しているのですが、
実はそうでもないということを
結論として書くつもりです。


テーマを一言で表現すると

アニメや漫画、ゲームで
エッチな表現には何の意味があって、
それがどう変わってきたのか

という感じですね。



(妖鳥シレーヌ・実写版)

さて、早速、本題に入りますが、

この問題は漫画『デビルマン』を
抜きにして語ることは出来ないと
思います。

この漫画では妖鳥シレーヌという
デーモン族の女性が登場しますが、

このシレーヌって
乳房が丸出しなんですね。

乳首まで描かれているんですよ。

陰部のほうも羽毛のようなものが
申し訳程度に覆っているだけで

要するに全裸なんです。



(主人公不動明・実写版)


これって実は大変画期的で
意味がある描写だったんですね。


というのも、
ここには身体性というものが
絡んでくるからなんです。




(宿敵サタン・実写版)

ここでデビルマンにおいて
デーモンの歴史って何だったのか
について触れると、

これはまさに血で血を洗う
殺戮の歴史だったわけですよ。

OVA版では
植物型のデーモンが
蝶人型の女性デーモンに寄生、
体を乗っ取る描写があるのですが、

命の取り合いと言いますか、
文字通りの殺し合いをしてきたんですね。

一瞬の気も抜けないような。



(くどいけどシレーヌです)

そういう殺伐とした動物的世界で
女性に服を着る権利なんてあるか?

という話なんですね。


つまり、シレーヌが全裸なのは
暴力表現の一つであるわけです。

(問題のシレーヌも
 デビルマンとの死闘の末に
 命がけの攻撃をしかけ絶命する。

 彼女が登場した場面は
 常に戦闘シーン。平和な世界で
 生きているキャラクターではない)

この作品では
人間も血も涙もない連中が多くて、
終盤では人間同士の殺し合いがあったり
地獄さながらの光景が描かれますし、


ヒロインもデーモン族の一味だと疑われて
首を切られて死んでしまうのですが、


実はそういう惨たらしい絵を描くこと
って凄く意味があるんですよね。



のらくろ1.JPG

というのも、日本の漫画って

戦時において、
現実的な暴力表現を
排除するようになったのですよ。


例えば、戦争中に書かれた
漫画『のらくろ』を見ると、

主人公は死にませんし、
敵である中国兵も撃たれたり
刺されたりしても死なないんです。

いてて、早く抜くがよろし
とか言うだけで流血すらしない
んですよね。


駄菓子,タコ,お菓子,ガム,ネーミング,こぶ,補足

ミッキーマウスとかがそうだけど、
ギャグ漫画において、
キャラクターって谷に落ちたり
車に轢かれたりしても
ピンピンしていますよね。

潰されてもぐちゃッと中身が出ずに
紙みたいにペラペラになってから
数秒後に元に戻る。

そういう非現実的な暴力描写を
熱心にさせることで、漫画やアニメは
戦意高揚に利用されてきたわけです。

これは欧米にも言えることだけど。


(普通は死ぬ↑)


暴力など大したことではないと、
つまり暴力に対する抵抗感をそぐ
という働きがここにあって、

それゆえに昭和のある時期まで
ある種のリアリティは封印されてきた
という経緯がここにあったのですね。


女性キャラには乳房はもちろん、
乳首のような具体的な生物的器官を
描くことはご法度だったわけです。


そういう状況で
PTAに喧嘩を売りながら
ハレンチ学園とかデビルマンとか
徹底的に凄惨な殺し合いを描いたのが
永井豪先生だったと。

ですから彼って結構、偉大なんですよ。
あまりメディアでは褒められないけど。



どちらかというと
エッチな描写を大々的に
描いたことで有名になった人
ですが、永井漫画において
性と暴力はつながっているんですね。


永井先生に限らず、
ある年代、評論家の大塚英志さん
によると70年代らしいのですが、

そこにおけるポルノ描写というのは
非現実的な世界観=
支配者側にとって
都合の良い世界を描くことに
対する
一種の批判でもあった
わけです。


古臭いフェミニストが
今でもたまにやる下品な性描写って、
彼女たちにとっては
それがロックなんですね。


私はそういうの嫌いですけどね。

(セックス・ピストルズという
 名前が典型的だが、反体制的な
 ロックバンドも、ある時期までは
 社会で封印されてきた性を暴露
 することで大人に対する抗議を
 表現していた)



まぁ、そんな意味があった
性描写だったわけですが、

これが80年代ぐらいから
変質していきます。


どう変わっていくのか・・・








4545784042328_17oct20_1.jpg


まぁ、
こう変わっていくんですよ。


別に、この漫画や矢吹先生を
けなしているわけではなく。


でも、大変差別的な記事を
多々載せているまとめサイトで

管理人が矢吹漫画を讃えていること、
矢吹神と呼ぶことに抵抗がないこと、

あるいはこれ系のエロスな漫画を
喜々として読む人間が
そういうサイトの読者になっている
ことはなかなかどうして意味がある

わけで、その辺について
後編で語ろうと思います。

(すぐには書けないので
 数日かかるかもです。悪しからず)

~続く~

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狂気と娯楽・芹沢あさひ(後編)




公式サイトより

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ストレイライトとは

身に纏うは迷光 少女たちは偶像となる



実在と非実在を行き来する
カリスマ的アイドルユニット。


アイドルというアバターを身に纏い
歌うは真実か、狂気か。

解き放たれた迷光が、
今日も世界を奔る(はしる)。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




狂気と娯楽・芹沢あさひ(予習編)

狂気と娯楽・芹沢あさひ(前編)

狂気と娯楽・芹沢あさひ(中編)


とうとう最終回です。

前回、めちゃくちゃ
気になるところで終わりましたが、

さて、どのような
クライマックスを迎えるのでしょうか?








この手の話で
私の意見を聴くと、よく

「精神病は治さなくても良い
 って言うつもりですか!

「苦しんでいる人たちのことを
 忘れないでください!」

とか言う人がいるんだけど









私が言いたいのは
治すなってことじゃなくて


障害というのは正確には、
「日常生活を送る上で障害になる」
というものであって、

その点を除けば
いわゆる健常者と何ら変わらないんだ
ってことなんですね。








現実に目を向けていれば、
いわゆる「健常者」にも
意思疎通することが著しく困難な
国語力のない人間が沢山いるし


その逆に精神疾患者でも
きちんと会話が出来る人は
たくさんいるのだから





娯楽作品において
精神疾患者を異質なものとして
描くべきではないというスタンスです。









予習編でも触れたけど、

こういう風に相手を
モンスター化する際には

恐怖の対象にすると同時に
嘲笑のネタにもされていて、

自分たちよりも
下の存在に位置づけているんですね。




自分たちは正常、向こうは異常であり、
我々のように矯正しなければならない
という価値観を前提に描かれているのですよ。








海外では
子供向けの映画ですら
身体・精神疾患者を仲間として
描いているものが少なくないのだから






台詞を
「ついにくるった」から
「ついにおこった」に書き換えて
終わりにするような姑息な真似はせず


もっと正面から向き合う作品を
作って欲しいというのは思うところですね。

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狂気と娯楽・芹沢あさひ(中編)



狂気と娯楽・芹沢あさひ(予習編)

狂気と娯楽・芹沢あさひ(前編)


伝説的UKバンド、
ピンク・フロイドのアルバム『狂気』には
次のような歌詞があります。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
The lunatic is in my head
The lunatic is in my head

狂気は僕の中に
狂気が僕の頭に

You raise the blade,
You make the change

お前は刃を振り上げ
僕を変えようとした

You re-arrange me 'till I'm sane

僕が正気になるまで
再調整しようとした


You lock the door

お前はドアにカギをかけ

And
throw away the key

キーを捨ててしまった

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

藤子・F・不二雄 大長編ドラえもん のび太と雲の王国 コンピュータが壊れた


「狂」という文字には
「大げさに走り回る犬」という意味が
 込められているそうです。

「犯」と同じく、
 ある枠を超えて飛び出す様子を
 描いたものであり、そこには

物事は一定の枠の中に
収まらなければならない 

病気は治さなければならないし
故障した機械は修理しなければならない

という強烈な先入観が込められている
のですが




フロイドの『Brain Damege』を聴くと、

そうやって無理やり
正常な人間に矯正することが
逆に抑圧になるんじゃないか

ということを
考えさせられるんですよね。


ここでシャニマスの新ユニット、
『ストレイライト』について触れたい
と思います。





ストレイライトとは「迷光」、
要するに邪魔な光のことです。

写真撮影する際に余計な光が入ると
被写体が見えづらくなるので

各撮影者は構図を工夫したり
レンズフードをかぶせたりして
迷光対策を行うことになります。






写真を撮影する行為って
ある意味、すごく近代的で

きれいな画にするために
余計なものを斥けるんですね。


「衛生」という考えが芽生えたのは
 近代からと言われますが

 手を綺麗にするためには
 せっけんなり何なりで
 付着したばい菌を殺すわけですよ。




「美しい国」の画像検索結果



これを社会にあてはめると
美しい国をつくるためには
汚いものを消す必要があって





「健康帝国ナチス」の画像検索結果


その汚いものって何ぞやと言うと

筆頭に上がるのは健康でない人間、
つまり病人になるわけですよ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
身体障害者や精神障害者は
社会には「無用」であり、

アーリア人の遺伝的な純粋性を脅かすため、
生きる価値なしと見なされました。

第二次世界大戦が始まると、
知的障害、身体障害、精神障害のある人は、
ナチスが「T-4」または
「安楽死」プログラムと呼んでいた
殺害の標的とされました。


https://encyclopedia.
ushmm.org/content/ja/article/
the-murder-of-the-handicapped

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





最近の日本でも

高齢者の終末期医療は
税金の無駄だから打ち切れ

とか

人工透析患者は死ね
という意見が飛び交っていますが

そういう意見が
愛国派の議員や評論家の口から
出てくるというのは
ある意味、自然なことです。

綺麗にするということは
つまりはそういうことですから。






狂人と悪人を同一視する、
あるいは
相手を悪人として演出するために
狂人、病人というワードを利用する
という行為への批判は

私が知る限り
1960年代には始まっているのですが



いつまで経っても相手を病人化して
攻撃する姿勢が変わらないのは
それだけ、そういう近代的思考が
日常化しているからではないでしょうか?


健康であるのは良いことだとは
誰もが思うことですし、

年を取って肩こりや老眼に
悩まされるようになれば
なおさらそう感じることですからね。




(漫画では知性の象徴として
 しばしば使われがち)

ただ、目が悪いということが
=悪党扱いされないように

実は、ある状態を
悪とみなすか善とみなすかは
世間の気分次第で決定されていて、


そういう当たり前の考えに対して
それっておかしいやんと
ケチをつけることって
結構大事だと私は思うんですよね。




以上を踏まえると
自ら「邪魔な光」を名乗る
このストレイライトというユニットって
すごくロックやんと感じるわけでして。

世間に対して
拳骨(げんこつ)を振り上げる
かなり攻撃的なグループなんですね。

まぁ・・・今後のシャニマスの
売り上げ次第で変化する余地はあるけど、

少なくとも
これまでに読んだストーリーを
読む限りでは、それっぽかったですよ。


というわけで、
いよいよ本編に触れたいと思います。




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狂気と娯楽・芹沢あさひ(前編)



狂気と娯楽・芹沢あさひ(予習編)


前回では、
映画やアニメ、漫画といった
娯楽作品において、精神疾患者は

恐怖や犯罪、暴力の象徴として、
その場合、見世物小屋の猛獣のように
面白おかしく描かれてきた


ということを説明しました。





そのような狂気の描写は
娯楽に特有のものというよりはむしろ、

現実の狂気についての捉え方が
如実に表れたものであり、


それはしばしば、
相手を怪物化することを通じて
自らの正しさを信じる行為でもありました。





日常的には狂気は
悪と結び付けて考えられます。


インターネットでは相手を嘲笑する際に、
精神疾患者を指すスラングが使われますが


ここでは相手が
本当に疾患者かどうかは問題にされず、


逆にガイジ・火病・基地外・池沼
といった言葉で名指しすることによって

あたかも相手が間違っているかのように
印象付けるわけです。




正常な人間なら
自分の正しさが理解できるはずだ

それが出来ないということは
こいつらは異常者に決まっているのだ

という固定観念に根差した行為
だと言えます。





敵対者を
狂気および病気を抱えた人間として
しばしば表現されがちなのは、

1つには

現代人が
「病(やまい)は異常な状態である」
「病は治療しなければならない」
という強烈な先入観を抱いていること、

そしてもう1つには
狂人や病人を「健常者」より
劣った存在として認知していること、

相手を狂人と決めつけ、あざ笑うことで
自分たちの正しさを確認していること

が原因として挙げられます。


「ドラえもん 故障 雲の王国」の画像検索結果


その際、
笑うという行為は非常に重要
です。


畏怖(いふ:おそれうやまう)
という言葉があるように、


単に怖がるだけでは
上下関係が逆転してしまうんですね。

つまり、自分のほうが
弱いと認めることになる。



それを回避するためには

相手を面白おかしく怪物化させて、
その醜悪な外見や幼稚な知性を
嘲笑するという手続きが不可欠になる
というわけです。








このように狂気の描写は
しばしば差別と直結するので

娯楽作品に評価において
この点への考察は避けられない
と私は思います。


それでは
アイドルマスター・シャイニーカラーズは

この狂気を
どのように描いているのでしょうか?







ストーリー冒頭のシーンにおいて
283プロダクションの新人Pは
街中で1人の少女と出会います。

その娘は難しいダンスを
その場で見ただけで
再現してみせたのです。







大変な才能の持ち主だと感じたPは
その少女をスカウトしました。


その娘こそが
本記事の主役である
芹沢あさひだったというわけです。






このあさひという少女、
普段は明るくて人懐っこいのですが


集中すると
他人の言葉が聞こえない、

というより
他人の声が聞こえないほど集中する
一面があって、





その時は笑顔が消えるんですね。

人によっては
少し怖くなるかもしれません。






 

あさひを一言で表すと
「完璧主義者」だろうと思います。





 

ダンスにせよパズルにせよ
自分が面白いと思ったことには
納得がいくまで徹底的にかじりつく。









そういうストイックさが
この娘にはあるんですけど





これって何も知らない人にとっては

めちゃくちゃ感じが悪い
んですよね。


無視されてるわけですから。
それも何度も。


私が感心しているのは
そこでプロデューサーが怒らない
という点なんですよ。





プロデューサーは大人ですから
中学生のあさひに対して

「こらー!ちゃんと聞かんかー!」
って怒鳴ることも出来るだろうし、

そうやって
良い子に矯正することも
その気になれば出来ると思うんだけど




それって、あさひの
良い所も殺しちゃうんですよね。


先日、紹介した
『アンチ・オイディプス』では

一つの枠の中に
人間を押し込めようとすることの
残酷さが非難されていましたが、

このプロデューサーは
それをしないんですよ。




あくまで

あさひの個性を消さずに、
過度の練習で体が壊れないように
気に掛ける。そこが凄いと思う。







私も塾講師のバイトをしていた時に
発達障害の生徒を担当しましたけど
特定の場面を除いては
いたって普通の子供でしたよ。

確かに、あれ?
って思うことはありましたが、
それが全てではないんですよね。


精神疾患を抱えているというのは
あくまでその子の一面であって、
個性の1つなんですよ。


それを無理やり曲げようとして
上手くいかないと
こいつは駄目な奴だと怒鳴る
っていうのはやっちゃいけない
と思うのです。


もちろん、
治せるものなら治すに越したことは
ありませんが、

もっと大事なのは障害を抱えている
という理由でその人を否定しないこと
だと思うんですよね。






あさひストーリーを書いた人は
この点、かなり真面目にやってる
ような印象を受けるんですよ。


あさひが
過度な練習をつんでいる時にも
頭ごなしに否定するのではなくて



 

あさひの向上心を尊重して












早く成長するためには
休むことも大事であることを
それとなく気づかせるんですよね。


「練習するな」ではなくて
「十分休め」と言うんですよ。






あさひの物語は
あさひ本人もさることながら

このプロデューサーの優しさに
感心というか感動しちゃったんですよね。

ここまで担当の娘の立場で
考えることが出来るのかと。


障碍というのは
あくまで生活するうえで壁になるから
障害と言われるのであって、

周囲の人間が理解したり
社会の方から変わっていけば
それはハンデではなく個性になる

恐怖や笑いの対象ではなくなる
と私は考えているのですが、


それをフィクションで表現した
シャニマスはマジですげー
と思いましたね。



もちろん、そういう描写って
海外映画では結構、
普通にされてるんだけど、

日本のゲームで
それをしたというのが凄いです。






















































以上、
芹沢あさひの描写を通じて
アイマスの凄さについて
語りました。


アイマスっていうより
シャニマスの凄さだけど。


あんまり言いたくないんだけど
デレステのPは、この逆をやっていて
そこが大変問題だと私は思っている。

それは後々語るとして
後編では、あさひのパートナーである
冬優子の紹介をしながら、

この2人の関係について
考察していきたいと思います。(つづく)

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愛と勇気と誇りをもって戦う孤高のぷよリスト。好きなものは勝利という名の美酒、嫌いなものはネトウヨです。


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