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ぷよます!!

愛のぷよリスト鬼龍(キリュー)が紡ぐ戦いの記録・・・それがぷよます(ぷよクエとかデレステとかスクフェスのゲーム感想を書くブログです)

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収集イベント感想(19年10月)



初回に限り単発5回分の石で
回せるガチャ。






ぷよフェスカードが
1枚あたり0.04%で提供という
粋な計らいをしてもらって
申し訳ありませんが、

どうせ当たるわけないと思うので
今回はパスしますね。







せっかく当てたので
橘みずきをリーダーにして
甘口や辛口を周りました。


結構、優秀だと思います。
魔人でも構いませんけどね。





チャンスボスでもらえるポイントは
1回あたり1940。


6日で12万まで貯めるには
1日に10回は挑戦しないと無理です。


やるき草があるとはいえ、
これは結構、厳しい。

特にパックがない身としては。






10%チケットで
念願のチェッタを手に入れましたし
今回はガラテアをSにして
おしまいにしたいと思います。








そねDの忘れ形見の1つ、芸術家シリーズ。

☆7にすることで
漁師並みのスピードでスキルを
発動させてくれるお利口さんになります。

特に多色デッキを組んでいると
この毎ターンチャンスぷよを作ってくれる
能力があるとないとではスキルの回転率が
全然違うので、マジで当たり枠だと思いますね。






しろいフェーリをリーダーにした
多色デッキがこちら。


まぁ、自分、
きらめくルルーとDGアルルを
持っているので、あかきウィッチを
リーダーにしてミヤビやフェーリを
それらと入れ替えたほうが良いのですが

レベルを抑えてでも
フェーリやミヤビの声が聞きたいので
とりあえずこれで使ってみるつもりです。





そういえば、今日になってから
うちのギルメンがガチャり出しました。

他のギルドでも
当日、ガチャる人間が
多数いると仮定すれば、

案外、火曜のお昼ごろには
ぷよクエのランキングが
50位以内に戻っているかもしれませんね。


そうなると私が前回書いた記事は
的外れの意見になるのか(汗)


まぁ、そっちのほうが
良いのかもしれません。


以上、簡単な報告でした。

収集イベントは火曜で終わりにして
残りの日はゆっくり休もうかなと思います。



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ぷよクエ125位。マジか・・・



2019年10月13日午後8時時点の
GooglePlayゲーム売り上げランキング
の結果がこちら。







スクフェスよりはマシ




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Vtuberはなぜ廃れたか(中編1)



前回のまとめ


近代以前の文芸作品は

①作者と読者の区別がなく

②語るという行為を通じて
 読者は創作に参加していた。

③そのため、民話や伝説、神話には
 複数のバージョンが存在するものが
 見受けられるが

④むしろ固有の読者が
 完成済みの作品を送り出すほうが
 全体からみれば稀だった。



難しく書けばこんな感じですね。




現代でも
その手の作られ方は
怪談や都市伝説の分野で残っていて


トイレの花子さんを例にすると

①ノックをすると返事をする
②赤い吊りスカートをはいている
③女の子の幽霊

という基本的な設定を知っている読者が
アレンジして話を作っていくわけですよ。


鬼太郎の花子さんの場合、
容姿が美少女になっていて
スマホまで使えるわけですが、


時代や地域、語る人間に応じて
自在に姿形が変わるというのも
大変特徴的だなと思います。






このキキーモラも
元々はロシアの妖怪でした。


家に住み着いている
綺麗好きなモンスターという
設定をアレンジしてお話が作られる。



近代以前の文芸作品の創作は
固有の作者がいないのが普通で
それは現代でもわりとよく見られる
わけです。









じゃあ、近代以降は
どうなっていくんだという話ですが


これは簡単な話で
作者が発見・発明されていく
のですよ。


夏目漱石の『夢十夜』という
短編を例にします。





この作品は自分が見た
夢を「語る」形式を取っていて、
その中にこういう話があるのですよ。


子供を背負って道を歩いていると
いつのまにか子供が盲目になっている。

目が見えないのに
これから歩く道の様子を
まるで見えているかのように
くわしく教えてくる。

だんだんと口調が
大人の男のそれに変わってくる。

そうしてある杉の根のところまで
辿りついたところでこう話す。


100年前、
お前が俺を殺したのは
ここだったな
と。

(正確にはセリフはちょっと違う)


そこで漱石は
ああ、確かに100年前、
自分はここで盲目の男を殺したな
という自覚がおきて、

そのとたん、背中の子が石地蔵のように
重くなったと。そういう話ですね。




実はこれ、江戸時代には
すでに存在が認められる六部殺し
という怪談話をアレンジしたヤツ
なんですよ。
















つまり『夢十夜』(第3夜)という小説は

六部殺しという
名前のない作者(たち)によって
語られていた変動的なストーリーが

夏目漱石という
固有の作者が所有するストーリーへと
生まれ変わったものなのですね。














例えば私が『夢3夜』とか
適当なタイトルをつけて

この話を自分が書いたもの
だと言ったとします。


その場合、まず間違いなく
盗作したなと責められるわけです。

なぜなら、
夏目漱石という作者がいるから。


アレンジする場合でも
夏目漱石の「原作」があるよと
明記しなくちゃいけない。


こういう1つのバージョンを
上位に位置づけるというのは
花子さんのような怪談話では
到底、起こりえないことです。



原作が誕生するという一連の流れ。
これこそが大変、近代的な営み
だと言えるのですね。





物語の作者は1人しかいないし、
ストーリーも1つしか存在しえない。


夏目漱石以外の人間が
内容を改変して別の結末を書いても、
それは同人とか二次創作とみなされて
オリジナルとは考えられないんです。






ジブリ映画の『ゲド戦記』。

ネットでは当時、
めちゃくちゃ叩かれましたが、

大体の理由が
原作を無視して勝手に話を作ったから
だったと記憶しています。


でも、それって歴史的には
むしろ普通なんですよね。


今でも映画や演劇では
当たり前のように原作を脚色して
話を作っていて、

物語の舞台や人間が
変更されているのもよくあります。


ちょっと前にテレビで
アガサ・クリスティーの
『そして誰もいなくなった』が
放送されていましたが、

登場人物が全員日本人で、
舞台もイギリスではなく日本でしたね。


そういう当たり前が
当たり前でなくなってくるのが
近代という時代なんですね。






1人の作者と1つの原作。

作者の名前が貼られた物語。


原作という概念の誕生は
意外と新しいんです。


小説は作者が書いたもので、
作者の意図が文章に反映されている。

作者の訴えたいテーマや
メッセージが文章の裏にある。


こういう発想は
実は不変のものではない
ということは知っておくべきだと思います。







で、ここからが難しいんだけど

「この話は俺のもんだー!」とか
「俺の書いた話と違うじゃねーか!」
 ということを主張するには

「俺」という存在がいないと
 いけないんですよね。















ピタゴラスの定理って覚えてます?

a²=b²+c²

という中学で習うやつなんですけど

あれは正確には
ピタゴラス教団が発見した定理
なんですよ。


ピタゴラス教団という団体があって、
そのメンバーがみつけた定理は
教団の定理になるんですね。

そこには教団という「共同体」はあるけど
「個人」というものは存在しないんです。




枕草子の作者は
「清少納言(せいしょうなごん)」
って言いますよね。


これって実は女房名、
つまり一種の役職名なんです。

本名はわかりません。


宮本武蔵だって
「宮本村の武蔵」だし

菅原道真だって
「菅原一族の道真」なんですよ。



村とか一族とか、
そういう特定の団体とは別に存在する
「わたし」がいるという意識が
ここにはないんですよ。




鉄腕ダッシュっていう番組を見ると

やたらと江戸時代の職人の技術が
紹介されますけど、

いちいち誰が作った技術か
言わないじゃないですか?


あれはもちろん、
作者がわからないからなんですけど、

それは自分が開発した技術は
村なり組合なりの共有の財産だっていう
意識があったからなんですよね。

つまり、作者がいないんです。


特許を申請するなんてのは
本当に最近の出来事なんですよ。


村や組合とは別に存在する
「わたし」というものがいる
という自覚がないんです。


よく考えてみれば、
村人や職人同士の共同作業なしには
生きていくことが出来ないわけで、

村や組合なしに
存在する「じぶん」がいるという
意識が生まれるのはかなり後になるんです。


国家や社会とは別に
「わたし」というものが存在していて
その「わたし」は財産を持つ権利がある。


こういう「私有財産」という発想がないと
作者は生まれることが出来ないんですね。


(「じぶん」や「おのれ」という言葉も
  地方によっては「あなた」を
  意味することがあります。

  それだけ、「あなた」と「わたし」は
  明確に区別できないものなんですね)




これを逆向きに動かすと
愛国運動になるわけですよ。


ハーケンクロイツと一緒に
旭日旗や日の丸を振り回すというのは

「日本」というものとは別に
「わたし」が存在するという意識があると
 どだい無理なことなんですね。


「わたし」という存在を消して
「日本」と同化させることで
 はじめて可能になるわけです。




客観的に見れば
本人たちが気に入らないだけなのに

彼らの中では
「日本人の心を踏みにじった」
ということになっているのは


「俺」=「日本」という
 自己認識が前提にあるからで、


朝鮮人でてけーとか
慰安婦は嘘だーとか騒いでいるのは
「わたし」ではなく「日本人」なんです。


(だから、彼らに逆らう人間は
 日本人でないもの=反日と認定される)


そうじゃないと
「お前の個人的な意見だろプゲラ」
で片づけられちゃいますからね。

自分の意見ではなく、
国民の総意にしないといけない。

(この時、同時進行で
 「非国民」というグループも生まれる)


それを考えている「わたし」というのを
無視しなくてはいけない。


ナショナリズムっていうのは
個人を消滅させないと出来ないんです。







ここで『夢十夜』に話を戻すと

あの小説は
「夢を見ている「わたし」とは何か」
というのを問いかけている作品でもある
わけですよ。


大日本帝国の臣民でもなく、
日本人とか大和民族とか
名主の息子とかそういう大雑把な枠組みでは
捉えきれない、特別なオンリーワンである

夏目金之助という
「わたし」を見つめる話なんですね。


ちなみに、漱石はエッセーとして
『私の個人主義』というのも発表しています。






日本の近代小説の歴史というのは
「わたし」を自覚していく歴史
なのですね。


志賀直哉の『城の崎にて』も
蜂の死骸を見る「わたし」とは
なにか、という点を考える話で、

作者自身を主人公にする
私小説が大正時代に流行するのは

作者と読者を切り分けるためには
作者である「わたし」って何だ?
という問いをしなくちゃいけなかった
からだったわけです。





さて。

ここまで文学史の話をしてきましたが、

それは、基本的に、
日本の漫画やアニメ、ゲームもまた、
近代小説の亜種として生み出されてきた
からなんですね。


ジョジョの作者って誰ですか?
荒木先生ですよね。


荒木先生以外の作者が描いた
ジョジョは「偽物」か「同人」に
なるわけですよ。



そして
アニメ化するにせよ映画化するにせよ、
原作のストーリーと矛盾しない形で作られる。


1人の作者と
1つの原作に縛られる創作。



そういう特徴があるわけです。






ところが最近、流行している
メディアミックスというのは
どうもそれらとは違う性質を
抱えているのですね。

端的に言えば
ラブライブの作者って誰ですか?
ということなんですよ。


そして、メディアミックスには
歴史という概念が存在しない。


そういう点について、
次回、語りたいと思います。

~つづく~


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応援ガチャ16連



先ほど
応援ガチャを回してきました。


狙いはゴーストロリータ。
頻繁に出てくるだろうと思いきや

まさかのまさか、基本的に
ハロウィンの時期にしか登場しない
モノホンのレアキャラなんですよね。




しかも去年は復刻されなかったんですよ。

この機を逃したら
もう手に入んないだろうなと思い
回してきました。







とはいえ、あまり無駄遣いは
したくないので単発で勝負。


塔石とマップ石が
150個以上残っているので
祖に気になればガッツリ回せるんだけど

まぁーねー・・・
あんまり無駄遣いはしたくないかなー
と思って・・・はい。







で、結果なんですけど

まず単発1回で
ハロウィン・ルゴーを当てて






5回目でコスタを当てて












6回目でぺルヴィスを当てました。









このぺルヴィス
めっちゃ可愛くないっすか?


個人的には大満足です。






d351d161f30d36bbfe94923ccf205acd3e7c93a8.png
(星の魔導士と同じ能力)


☆7のイラストが個人的には
ちょっと苦手なので
☆6のままで使おうと思います。


性能的には断然、
☆7なんですけどね。




6枚中3枚が特攻。悪くないです。
 

ここで
終わらせても良かったんですけど


わりと確率が悪くないので
もう10連ぐらいやってもいいかなと
思ってガチャりました。










ふむ。











ああ・・・











おおおおおおお!!!!!!











てな感じで5枚当てました。
ゴスロリ3枚に重装兵2枚ですね。









グラニア、変っ身っ!!!

かわいい。


青も素材を集めたら☆7にします。






チャンスボスはこれで行きます。
(9枚目にガラテアを入れるつもり)


なお、無料単発はストルナムでした。






3b7976c33851ed82a24204d84f3a5f38a9ccc7a0.png

最後にセリリですが、
ミクさんを持っているなら
別に要らないかな・・・と思いますね。


LSに限っては
ミク姫のほうが強いですしね。


これで☆7になるなら
話は別だったのですが・・・(汗)



今後も使うということを考えれば
ゴスロリの方が当たり枠でしょう。


6%で引けるので
意外と当てやすいと思います。


以上、ちょっとした報告でした。
次回はまた、Vtuberの話に戻ります。


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Vtuberはなぜ廃れたか(前編)



登録者数267万人、
半年前には806万再生も
余裕のよっちゃんで達成していた
バーチャル・ユーチューバー
キズナアイ


NHKにもコメンテーターとして
出演していた彼女ですが





いろいろあって現在、10万再生も
いかない状況になっています。







Vtuber四天王の1人である
ミライアカリはさらに不味い。


再生回数5万ちょっとなんですよね。








猫宮ひなたも
1年前は30万~60万再生
余裕っすよって感じだったのに

今は10万いけるか?
となっていますし








わりと健闘している
月ノ美兎だって1年前は
30万再生が普通だったわけです。







大体、動画1本あたりの収入は
再生回数×0.1~0.02
と言われています。


つまり、1万回再生なら
甘く見積もっても
千円しか儲からないのです。


最低でも10万、
出来れば20万はないと厳しいし

Vtuberの場合、大半は
企業が立ち上げたものなので
もうちょっと稼いでくれないと
会社としては困るのではないでしょうか?





もちろん、グッズやイベントなど
動画以外の利益で穴埋めすることは
出来るので一概に運営が苦しいとは
断言できませんが、


それでも世間一般の関心は
以前よりも下がったなと感じます。


今回の連載記事は
Vtuberの凋落の原因を探る
ことを目的として作りました。




一言で言えば

この現象は
メディアミックスの弱点が
露呈された形で現れた

といったことになるでしょうか。


声優が降板したとか
アニメが爆死したとか
個別の原因はあるでしょうが

大きな要因としては
メディアミックス型の作品では
もうタピオカミルクティー的な
稼ぎ方しかできない

つまり、ごく短期間に
消費者から搾れるだけ搾り取る
ような稼ぎ方しか出来ないように
なりつつあるのでは・・・?

と思うんですね。





では、メディアミックスとは何か?


その問いに答えるために
近代小説とは何か?
という地点から考察を始めたい
と思います。


近代小説。


それは簡単に言えば

固有の作者と
物語、歴史を持つ作品

のことを指すんですね。



















明治時代以前の文芸作品は
どうだったのかというのを
考えてみるとわかりやすいと
思います。



うり子姫とあまのじゃく

という民話を例にすると、


このお話は美しい娘が
お嫁に行くことになるが
天邪鬼という鬼に妨害される

というあらすじこそ共通していますが
鬼に殺されるバージョンと
殺されずに結婚するバージョンの
複数の結末があるんですね。

そして、誰が書いた話なのかも
わからない。というか、
1人で書いたのかすらわからない。

正確には複数の人間が
伝言ゲームのように話を伝えるうちに
徐々に形が整えられていった。

それもいくつかのバージョンに
分かれていった。そういう作品です。




ネットどころか
本すらろくにない時代、
物語を伝える媒体は人間の口でした。

今風に言えばクチコミです。


平家物語ってありますよね。


あれは琵琶を持った坊さんが
楽器を演奏しながら教え説く形で
全国に広まりましたが


実は、話す人によって
内容が違っているんですよ。





これは近代的な作品では
ありえないことです。

話の内容を勝手に変えるのは
作者以外、ゆるされない。


ドラえもんという全40数巻の
固有の物語が先にあって
出版社はそれを売る。

つまり、
話を作る側と話を売る側、
そして読む側が
はっきり分けられているのです。





これに対して、近代以前では

1人の人間が完成済みの物語を
世に送り出すというのは
むしろマイナーであって


未完成の作品が
不特定多数の人間を介して
複数のバージョンへと
分裂して紡がれていく方が
メジャーだった


と言えます。





現代でも怪談では
そういう作られ方が
ポピュラーですね。

例えば
トイレの花子さん


①誰もいないトイレのドアを
 三回ノックすると返事をしてくる

②おかっぱに
 赤い吊りスカートを着た
 小さな女の子の霊

という部分だけが共通で

①どういう性格をしているのか
②人間を襲うのか襲わないのか

といった細かい設定は
その時代や地方の影響を受けながら
話し手がアレンジするわけです。


近年では
萌えキャラになったり
スマホをいじくったりと
かなり現代的な霊になっていますね。






八尺さま

というネット上で広がった怪談。


大女の妖怪に命を狙われて
色々困る話ですが








これは「やまおんな
という怪談がベースになっています。



山に薪を拾いに行ったら
美女がいたのだけれど、
松の木で胴体が見えない。

なんとなく薄気味悪いので
逃げるようにして帰ったのだが、

よく考えてみれば
松よりも高いということは
3M以上はある大女ではないか

やはり妖怪の類だったに違いない

という話です。

(この怪談にも
 いくつかのバージョンがあります)


現代の怪談の中にも
過去の怪談を現代風に脚色して
新たに書き直しているケースがある
わけですね。


この場合、
読者が作者になっていて
つまり過去の話を読んだり
聞いたりした人が、新たな作者に
なって物語を創作しているのですが、

この
読者と作者の境界が無い
という点こそ、明治以前の文芸作品の
特徴だったと言えます。





まとめると、一部の作品を除いては
近代以前の文学では

ある話を聞いたり
読んだりした誰かが
アレンジするようにして
新たな物語を作っていく。

その結果、
いくつものバージョンが
併存して語られていく。


というスタイルを取っていました。

その際、
複数の読者が
「語る」という行為を通じて
ストーリーの
更新作業に参加していく
ので、結果として

作者と読者の境界線が
ぼんやりしているんですね。



こういう創作方法が主流だったのに
対して18世紀(諸説あり)から
だんだんと、そして19世紀から
はっきりと近代型の小説が台頭する
ようになりました。


次回では某有名漫画を例に
その点についてお話をしたいと
思います。

~続く~

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プロフィール

HN:
鬼龍(キリュー)
性別:
非公開
自己紹介:
愛と勇気と誇りをもって戦う孤高のぷよリスト。好きなものは勝利という名の美酒、嫌いなものはネトウヨです。


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